機能和声の誕生とその発展:ラモー理論から辿る歴史的変遷
はじめに
音楽理論史において、和声(ハーモニー)の概念とその体系化は極めて重要な位置を占めています。単旋律の音楽から多声へと移行する過程で、同時に響く複数の音がどのように構成され、機能するのかという問いに対する探求は、ルネサンス末期からバロック期にかけて本格化しました。本稿では、特に18世紀の理論家ジャン=フィリップ・ラモーによる機能和声理論の基礎構築に焦点を当て、そこから古典派、ロマン派へと続く和声理論の歴史的な発展とその変遷をたどります。
和声概念の萌芽と通奏低音の時代
多声音楽の発展は、偶然的な和音の響きから、意図的な和音の構成へと関心を移す契機となりました。ルネサンス期においても、不協和音の処理などに関する規則は存在しましたが、それは旋律間の関係としての対位法が中心であり、和音そのものを単位として捉える理論はまだ十分に発達していませんでした。
バロック期(1600年頃〜1750年頃)に入ると、「通奏低音(Basso continuo)」の技法が普及します。これは、低音声部とそこに付けられた数字や記号(数字付き低音)のみが記譜され、奏者はその指示に従って和音を即興的に付け加えるというものです。この技法は、作曲家や演奏者に和音を縦の響きとして、また低音の上に構築されるものとして強く意識させました。通奏低音の実践は、和音の連結や進行に関する暗黙の了解を生み出し、和声的な思考を促進しました。
この時代には、様々な理論家が通奏低音の実践に基づいた和音に関する考察を試みました。例えば、アゴスティーノ・ピッティーリャ、ヨハン・マッテゾンなどが挙げられます。しかし、これらの考察は個々の和音やその連結に関する規則集の域を出ず、和音全体の体系的な理論には至っていませんでした。
ジャン=フィリップ・ラモーによる機能和声の基礎構築
和声理論に決定的な転換をもたらしたのが、フランスの作曲家・理論家であるジャン=フィリップ・ラモー(Jean-Philippe Rameau, 1683-1764)です。彼は、当時の音楽実践、特に通奏低音に内包されていた和声的な法則性を科学的・理性的に解明しようと試みました。その主著『和声論(Traité de l'harmonie réduite à ses principes naturels)』(1722年)において、彼は近代和声理論の基礎となる重要な概念を提唱しました。
ラモーの理論の中心は以下の点に集約されます。
- 基音(Basse fondamentale)の概念: どのような転回形であっても、ある和音は特定の「根音」または「基音」を持つとラモーは主張しました。例えば、ハ長調のドミソ、ミソド、ソドミは全て基音ハ音を持つ同じ「和音」であると見なしました。これにより、和音の転回形を統一的に扱うことが可能になりました。
- 和音の転回(Inversion): 基音以外の音が最低音に来る和音を転回形として定義しました。これは、通奏低音の実践において多様な最低音を扱いながらも、根底にある和音の同一性を説明する上で非常に有効な概念でした。
- 和音の機能(Fonction)の萌芽: ラモーは、和音が単なる音の集合ではなく、調性の中で特定の「機能」を持つことを示唆しました。彼は特に、調の主音の上に構築される和音(主和音、Tonic)、その属音の上に構築される和音(属和音、Dominante)、そして下属音の上に構築される和音(下属和音、Sous-dominante)が、和声進行において中心的な役割を果たすことを強調しました。特に属和音から主和音への進行(ドミナント終止)の重要性を理論的に位置づけました。
ラモーの理論は、それまでの対位法的な思考や実践的な規則の積み重ねを超え、和音そのものを理論の中心に据え、その根音や機能に基づいて体系的に理解しようとする試みでした。彼の理論は発表当初から大きな影響を与え、その後の和声理論研究の出発点となりました。
古典派・ロマン派における機能和声の発展と拡張
ラモーの理論は、18世紀後半の古典派音楽において、その骨子として広く受け入れられました。ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンといった作曲家たちの作品は、ラモーが基礎を築いた機能和声の原理、特に主和音、属和音、下属和音の機能的な連結を基盤としています。この時代には、以下の点で和声理論が発展しました。
- 調性の確立と転調の体系化: 長調・短調という調性がより明確に確立され、楽曲全体における調性の配置(ソナタ形式における提示部の第一主題と第二主題の調性関係など)が構造的に重要になりました。ラモーの理論に基づき、近親調への転調が和声的にスムーズに行われるための規則が洗練されました。
- 属七の和音の重要性: ラモーも認識していた属七の和音(Dominant Seventh Chord)が、属和音の機能を強化し、主和音への解決を強く促す和音として、古典派以降の音楽において決定的に重要な和音となりました。
- 非終止和音の多様化: 属七以外の七の和音や、九の和音などが積極的に使用されるようになり、和声的な色彩が増しました。
19世紀のロマン派音楽に入ると、機能和声の枠組みは維持されつつも、表現力の拡大のために大きく拡張されます。
- 和音の多様化と半音階技法の導入: 借用和音(平行調や同主調からの和音の借用)、ナポリの六度和音、増六度和音など、より遠隔の調からの和音や、従来の機能和声からは説明しにくい半音階的に変化した和音が頻繁に用いられるようになりました。
- 調性の曖昧化: 頻繁な転調、遠隔調への急激な転調、あるいは明確な調性を持たないパッセージが増加しました。ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』の冒頭に見られる「トリスタン和音」とその後の不安定な和声進行は、調性の求心力を弱め、機能和声の境界線を押し広げた象徴的な例です。
- 不協和音の拡大と解決の遅延/省略: 従来の理論では厳格に扱われた不協和音が、より自由に、また解決を遅らせたり省略したりして使用されるようになり、和声的な緊張感が増大しました。
ロマン派後期の作曲家たちは、機能和声の持つ構造的な強さを利用しつつも、色彩的、感情的な表現のためにその限界を絶えず探求しました。このような和声の拡張は、やがて従来の機能和声システムそのものの崩壊へと繋がっていきます。
機能和声理論の遺産と現代への影響
ラモーによって基礎が築かれ、古典派・ロマン派で発展を遂げた機能和声理論は、長短調を基盤とする西洋音楽の理解に不可欠な枠組みを提供しました。和音を単なる響きの集合ではなく、調性という文脈の中で機能を持つ存在として捉えるこの考え方は、その後の音楽分析や作曲教育において中心的な役割を果たしています。
20世紀に入り、無調や十二音技法など、調性からの離脱を目指す音楽が登場すると、機能和声理論はその絶対的な地位を譲ります。しかし、その理論が解き明かした和音の機能的な関係性や進行の論理は、非調性音楽における構造や、ジャズ、ポピュラー音楽におけるコード理論など、様々な音楽分野の理論にも影響を与えています。現代においても、古典的な調性音楽を理解し分析するためには、機能和声の知識が不可欠であり、音楽理論学習の基盤となっています。
機能和声の歴史的発展をたどることは、単に過去の理論を知ることにとどまらず、和音がどのように音楽表現の根幹をなす要素として進化してきたのか、そして人間が音の響きをどのように体系的に理解しようと試みてきたのかを理解する上で、重要な示唆を与えてくれます。
まとめ
本稿では、通奏低音の時代における和声概念の萌芽から、ラモーによる機能和声理論の画期的な基礎構築、そして古典派・ロマン派におけるその発展と拡張の過程を概観しました。ラモーの提唱した基音や機能といった概念は、その後の長短調音楽における和声の理解と実践の基盤となり、約2世紀にわたり西洋音楽の主要な構造原理の一つを形成しました。和声理論の歴史を学ぶことは、西洋音楽史における重要な転換点を理解し、現代の多様な音楽における和声の役割を深く洞察するための礎となります。