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音律の歴史的変遷:ピタゴラス音律から平均律へ

Tags: 音律, 音楽理論史, ピタゴラス音律, 純正音律, 平均律, ウェル・テンペラメント

音律の歴史的変遷:ピタゴラス音律から平均律へ

音楽における音の高さの関係性、すなわち音程は、様々な数学的原理に基づいて定義されてきました。この音程を具体的に楽器上で実現するためのシステムを「音律」と呼びます。音律の歴史は、音楽の響きや構造、そしてそれに伴う音楽理論の発展と深く結びついています。本記事では、古代から近代に至る音律の主要な変遷をたどり、それぞれの音律が音楽史においてどのような役割を果たしたのかを考察します。

1. 音律の起源とピタゴラス音律

音律に関する最も古い体系的な記録は、古代ギリシャの哲学者ピタゴラス(紀元前6世紀頃)に遡ります。ピタゴラスは、弦楽器の弦の長さの比率が特定の協和的な音程を生み出すことを発見しました。彼は、完全8度(1:2)、完全5度(2:3)、完全4度(3:4)といった単純な整数比を重視し、これらの音程を積み重ねることで音階を構築しました。

ピタゴラス音律は、完全5度(2:3の比率)を基準に音高を定めていく方法です。例えば、ある音(基準音)から完全5度上の音、その音からさらに完全5度上の音、といった具合に音を積み重ねていきます。これを12回繰り返すと、元の音から7オクターヴ上の音に理論上到達するはずです。しかし、ここで問題が生じます。完全5度を12回積み重ねた音高と、基準音から完全8度を7回積み重ねた音高は、数学的にはわずかに異なります。

完全5度(2/3)を12回乗じる: $(2/3)^{12}$ (周波数比で考えると $(3/2)^{12}$ ) 完全8度(1/2)を7回乗じる: $(1/2)^7$ (周波数比で考えると $2^7$ )

両者の比率は $(3/2)^{12} / 2^7 = 3^{12} / 2^{19} = 531441 / 524288$ となり、これは1よりわずかに大きい値です。この差を「ピタゴラス・コンマ」と呼びます。ピタゴラス音律では、このコンマが最も協和的であるべき完全5度や完全4度にしわ寄せされ、特に長3度や短3度が純正な響きから大きく外れてしまいます。これは、当時の主要な協和音程が完全5度と完全4度であったため、これらの音程の純正さを優先した結果と言えます。この音律は単旋律音楽や、初期のポリフォニー音楽においては機能しましたが、長3度や短3度が協和音程として重要視されるようになるにつれて、その欠点が顕著になっていきました。

2. 純正音律の追求

ルネサンス期にかけて、単旋律からポリフォニー音楽へと移行し、3度や6度といった音程が協和音程として認識されるようになります。これに伴い、これらの音程も純正な整数比(長3度:4:5、短3度:5:6など)で定義したいという欲求が生まれました。この欲求に基づいて成立したのが「純正音律」です。

純正音律は、主要な協和音程を単純な整数比(例:完全8度 1:2, 完全5度 2:3, 完全4度 3:4, 長3度 4:5, 短3度 5:6)で構成することを理想とします。例えば、ハ長調の主和音(C-E-G)を純正に響かせたい場合、C:Eを4:5、C:Gを2:3の周波数比とします。ここから、様々な音程を構築できます。

しかし、純正音律にも大きな欠点があります。ある調で主要な音程を純正に設定しても、他の調に転調したり、別の音を基準に純正な音程を構築しようとすると、またしてもわずかな音高のずれ(シントニック・コンマなど)が生じてしまうのです。例えば、ハ長調を純正音律で構成した場合、Cから完全5度上のG、Gから完全5度上のD、Dから完全5度上のA...と純正5度を積み重ねていった音高は、Cを基準に純正長3度を積み重ねていった音高とは異なります。また、Cの長3度上のEを基準として、その完全5度上のBを考えた場合と、Cから純正5度を積み重ねてEに到達する音高とは一致しません。

この問題は、異なる音程の種類(例えば、C-Eの純正長3度とE-Gの純正短3度)の組み合わせによって生じる音高が、別の経路で計算した同じ音名の音高と一致しないという形で現れます。特に、自由に転調を行う音楽においては、この音律の不均一さが致命的な問題となりました。純正音律は特定の調においては極めて美しい響きを提供しますが、転調が制限される、あるいは特定の音程が非協和的に響く「ウルフ」が発生するというトレードオフがありました。

3. ミーントーンとウェル・テンペラメント

純正音律の欠点を克服し、転調の自由度を高めるために、様々な「技法」や「音律」が考案されました。ルネサンス後期からバロック初期にかけて主流となったのが「ミーントーン法(中全音律)」です。これは、純正な長3度(4:5)を基準とし、その長3度をなす音程を(数学的な意味での)平均的な全音(ミーントーン)の積み重ねによって構成しようとする考え方です。例えば、C-E間の純正長3度を2つの全音(C-D, D-E)に分割し、それぞれの全音の大きさを均一にすることで、長3度を純正に近づけます。

ミーントーン法にもいくつかの種類がありますが、最も一般的な1/4コンマ・ミーントーンでは、ピタゴラス音律の欠点であった長3度・短3度を純正に近づけることに成功しました。これにより、和音の響きは格段に美しくなりました。しかし、これもすべての音程を純正にすることは不可能であり、やはり転調には限界がありました。特に、特定の音程(ミーントーンでは純正長3度を構成できない音程)に非常に歪んだ響きを持つ「ウルフ音程」が発生し、これが特定の調や和音の使用を制限しました。

バロック時代が進み、より自由な転調や多様な和音進行が求められるようになると、ウルフ音程を持つミーントーン法では対応が難しくなりました。そこで登場したのが、「ウェル・テンペラメント(良好な音律)」と呼ばれる様々な音律です。これは、完全に均一な音律ではありませんが、どの調でも演奏が可能であり、かつそれぞれの調が微妙に異なる響き(調性色彩)を持つことを許容する音律の総称です。ウルフ音程のような極端に不協和な音程は避けつつ、いくつかの音程は純正からわずかにずらして調全体のバランスをとります。

ヨハン・セバスティアン・バッハの『平均律クラヴィーア曲集』は、しばしば平均律で演奏可能なように書かれたと考えられていますが、当時の「平均律」は現代の平均律とは異なり、ウェル・テンペラメントの一種、あるいは様々な不均等な音律の試みを指していた可能性が高いです。ウェル・テンペラメントは、バロック後期から古典派にかけて広く用いられ、多様な調性の探求を可能にしました。

4. 平均律の確立と現代

18世紀末から19世紀にかけて、楽器の改良(特にピアノ)や大規模なオーケストラ編成、そして調性の拡大に伴い、どの調でも全く同じ音程関係を持つことが理想とされるようになりました。この理想を実現するのが「平均律(Equal Temperament)」です。

平均律は、1オクターヴを数学的に等しい12の半音に分割する音律です。これにより、どの半音の音程も、どの長3度も、どの完全5度も、その大きさが物理的に完全に均一になります。具体的には、半音の周波数比は $2^{1/12}$ となります。

平均律の最大の利点は、どの調でも自由に、そして均等に演奏・転調できることです。これにより、ロマン派以降の複雑な和声や大胆な転調が可能となり、音楽表現の幅が飛躍的に広がりました。ピアノのような鍵盤楽器では、平均律を採用することで、すべての調を一本の鍵盤で演奏することが可能になりました。

しかし、平均律にも欠点があります。平均律においては、オクターヴ(1:2)を除いて、完全5度(2:3)、長3度(4:5)といった純正な整数比の音程は一つも存在しません。すべての音程は純正からわずかにずれています。特に、純正長3度は平均律の長3度よりもかなり狭く、純正音律やミーントーン法で得られる純正な響きは、平均律では失われてしまいます。

現代の西洋音楽で用いられる楽器のほとんどは、平均律に基づいて調律されています。これは、自由な演奏や転調の利便性が、純正な響きよりも優先された結果と言えます。しかし、アカペラの合唱や弦楽器のアンサンブルなどにおいては、音程をわずかに調整することで、より純正な響き(純正音程に近い響き)を追求することがあります。また、古楽演奏においては、当時のウェル・テンペラメントなどを復元して演奏する試みも行われています。

5. 結論:音律史の意義

音律の歴史は、単なる数学的な問題ではなく、各時代の音楽家や理論家が、当時の音楽様式や響きの理想に応じて、音程のずれ(コンマ)をどのように配分し、どのような妥協を受け入れるかという試行錯誤の歴史です。ピタゴラス音律が完全音程を優先した時代、純正音律やミーントーンが長3度・短3度の響きを追求した時代、ウェル・テンペラメントが調性色彩と転調の自由度を両立させようとした時代、そして平均律が完全な転調自由度を達成した時代。それぞれの音律は、その時代の音楽語法を可能にし、あるいは制限する要因となりました。

音律の変遷を理解することは、各時代の音楽がなぜ特定の響きを持ち、特定の和音や調性が好まれたのか、あるいは避けられたのかを深く理解する上で不可欠です。また、現代の平均律の音響特性を認識することで、古楽の演奏実践や、平均律以外の音律を用いた新しい音楽の探求(マイクロトーン音楽など)への理解も深まります。音律史は、音楽理論が単なる抽象的な法則ではなく、実際の音響と音楽実践の緊密な相互作用の中で発展してきたことを示しています。